栃木県大田原に住むクリスチャンビジネスマンの日記

栃木県大田原に住むクリスチャンビジネスマン、萩原義明が日々考えたこと、行ったことを綴っていきます。

聖書が書かれた目的

大田原キリスト教会の聖書入門講座に参加しました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

この箇所が、「聖書がかかれた目的」を一番あらわしている所だということでした。

神様が私たちを愛しているということをあらわしている箇所と言うことですね。
大切な子供を十字架にかけ、苦しみを受けさせるほど私たちを愛してくれているということです。

神様が私たちを愛してくれている。
ここから聖書が始まっているということでした

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聖書の言う罪

大田原キリスト教会の聖書入門講座に参加しました。

■果実一つくらい赦してくれてもいいでしょ
イブが果実を一つ食べたことに対して神様が怒り、現在の人間の姿がある。

たった果実一つくらい赦してやればいいじゃないの。
神様って心狭い方だね。
そんなことを考える人、いますでしょ。

■神様からの不従順
でも、「たった一つの果実を食べた」ことを神様が怒っているわけではないのです。
そうではなく、それまで人間の意志で、完全に神様に従い、神様と共に生きてきた。
この人間が、自分の意思で、神様の禁じたことを守る必要はないと考え、不従順になったこと、このことが問題となっているのです。

この神様に従わず、神様から離れた状態を「罪」と言っているのです。

■罪とは状態
何かを行ったという行動を罪と言っているのではなく、神様から離れているという状態を罪と言っているのです。
本来、人間は神様に従い、神様との深い関係を持つように創られたのにもかかわらず、神様から離れ、自己中心に生きているという状態を罪と言っているのです。

「たった一つの果実を食べたという行動」だけど、
「神様から離れてしまった状態」という、大きな意味を持っているのだなと感じたひと時でした。

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生きる目的

大田原キリスト教会の聖書入門講座に参加しました。

■人は何のために生きるのか
自分で自分の生きる目的を考えると、なかなか答えは出ませんよね。

どのように答えるでしょうか?

成長するため、夢を達成するため、人の役にたつため
社会に貢献するため、生活を楽しむため、幸せを感じるため
基本的に無い、子孫を残すため

などでしょうか?

インターネット上で調べてみるとしっくりといくものがあまりないように思います。

■神が人を造った目的
本日の学びで聖書の考える人が造られた目的を学びました。

1.支配するために造られた(創世記1:26-28)
2.神の喜びのために造られた(創世記1:31)
3.神の栄誉を語るために造られた(イザヤ43:21)

人はこのために造られたと聖書は言っています。

■聖書を信じる
「人は神により創造されたのである」
「その神が聖書を通して、このようにいっている」

人が自分で自分の目的を考えてもわからないということでしょうか?

私は、聖書を信じ、創造主を信じ、イエスキリストを信じるとしたクリスチャンです。ですから、これらのことが自分が造られた、自分が生きている目的と信じ生きています。

自分の生きる目的を決めたとでもいいますかね。

自分の生きる目的が明確になる、いいものですよ。

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聖書入門講座初日

大田原キリスト教会の聖書入門講座に参加しました。
聖書について、聖書の考え方について体系的に学ぶことができそうで、とても期待しています。

■人の人生は、考え方で決まる
そうだなと思います。
どのように考えて生きるか、生活するかにより、人の人生は決まるのですね。

どのように考えるかは、何を土台として生きていくかということだというのです。
その土台は聖書的に言えば、二つあるといいます。

■聖書を土台としない考え
これは一般に自分の考え方といわれているものでしょう。
「自分の考えで決める」というものですね。
いろいろな人の本を読み、いろいろな人と出会い、いろいろな人の経験、考え方を聞き、自分として納得いくものを取捨選択していく。

自分のことは自分で考え、自分で決定していくということですね。

■聖書を土台とする考え
二つ目は、聖書を土台とする考え方です。
これは、全て聖書の考え方を土台とするというものです。
聖書は神から与えられた言葉であり、真理であり、全てこの聖書で言っていることを土台として生きていくという生き方です。

聖書全てを受け入れ、自分に合う合わないではなく、聖書が全てという生き方です。
なんでそんな考え方をするの?といわれたら聖書に書いてあるから、と答える生き方です。

■どちらを選ぶか?
自分に合う考え方をいろいろと部分的に取り入れ正しい考え方を構築していくというのはものすごく大変なことだと思います。

一つ一つ正しいかを検証していくということですからね。

しかし、聖書は神の言葉であり、その言葉全てを考え方の土台にする、というものは、納得感があります。何が正しいかは、聖書であると決めてしまっているのですから。

「聖書の言葉が神から来たかはどうして分かるのか?」「証拠はあるのか?」といわれると、自分が信じるかどうかでしかないと思います。

どんなに証拠を出しても、信じないことを選択した人は、信じられないですからね。

最後は、自分の選択でしかないですよね。

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